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一期一会のものづくり
南蔵商店 青木弥右エ門

南蔵歴史

青木藤助

当店は、明治五年(1872年)、愛知県知多郡武豊町で味噌とたまりの醸造頑として産声を上げました。
初代青木弥右エ門(青木藤助)は、農家の出身であったが、明治維新や封建制度の撤廃された時代を背景に、江戸時代と違って仕事を選べる自由な空気を得て、確実に実績を伸ばしていきました。

徳太郎

二代目青木弥右エ門(徳太郎)も初代の教えを忠実に守り、事業を拡大していきました。

良一

三代目青木弥右エ門(良一)が家業を継いだ頃には、世の中は金融恐慌、さらに二年後には世界恐慌が喘い、銀行の支払い停止や連鎖倒産が相次ぎ、経済は混乱しました。

そんな時、三代目が打った手段は「より良いものを造りたい。良いものなら続けられるだろう」。耐え忍ぶのではなく、晶質の向上を目指しました。
経営の苦しい中、当時では味噌造りの第一人者に頭を下げて教えを請い職人としての勘や経験だけでなく味噌造りの正確な数値が大切という事を学びました。そして生まれた味噌は、驚くほど良質な物となりました。

しかし味噌・たまり造りも戦争という大きな波に翻弄されました。
味噌・たまりの生産量は、戦前の一割程度にまで落ち、武豊町に五十軒以上あった業者も半数に激減しました。

孝一郎

戦争も終わり、四代目青木弥右エ門となった、孝一郎は高校卒業と同時に修行するつもりでしたが、三代目良一は、科学的な管理技術が味噌・たまり造りに不可欠であることを、身をもって感じていたため、孝一郎を東京農大醸造科に進学させました。
味噌やたまりは通常、数力月または一年程で造り終え、化学調味料などを入れますが、当店の味噌やたまりは、四代目と五代目(良夫)の努力で国産大豆100%に自然海塩を使い、醸造期間も二夏を超えて三年間、そして長期保存が可能となりました。
これには三代目の良一の時代に極めて高品質な味噌とたまりの製造に成功したこと、さらに四代目孝一郎が学問の力をかりて、徹底した素材の吟味と工程管理を行ったことによります。

良之・良夫

孝一郎が亡くなり良夫が五代目青木弥右エ門を襲名し、東京農大醸造科学科を卒業した(2014年)良之(六代目)と共に父子二代で伝統の味を守り続けており、たまりでしか味わえないコクと香り、小麦を一切使用していないこと(グルテンフリー)が国内に留まらず、海外の方々にも評価され今日も味噌・たまり造りに励む。